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更生保護〜地域、家族 |
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躾は滅法に厳しかった。
何といっても、それだけ私が手間のかかる、懲りない子供だったので、それも当然のことだと思っている。
大概は父親に怒鳴り飛ばされ張り倒されるのが常で、その後、べそをかいている私を母親が優しく慰めてくれるのだった。といっても、まだ昭和の二十年代のこと。
いかにうちの母親が進歩的な教育観を持った人であったとはいえ、まだ世の中はそれほどアメリカナイズされてはおらず、従って優しく慰めるといっても、決してあちらの映画なんぞに出てくるように、ぎゅっと抱き締めて頬ずりしたりおでこにキスしたりなどというようなことをしてくれる訳ではなく、ただ「本当にしようのない子やね」などと言いながら、手作りのお菓子をそっと差し出す程度のことだった。それでも、こっぴどく叱られて遣る瀬無い身の当方としては、ひどく身に沁みてうれしく、更にまた新たな涙が滲んできたりするのだった。
時には母親の方が鬼のように怒ることもあった。そんな時には、今度は父親が「阿呆なやつやなあ・・・」といった憐憫の表情を浮かべて遠巻きにこちらを見てくれて、いつも厳しい父親のそんな表情がまた滅法身に沁みて嬉しかったりしたものだ。
時々は、あまりに怒り心頭に発した母親によって、家の外に追い出されてしまうこともあった。いやいや、本当にそのくらい手におえない悪ガキだったのである。
「もううちの子だと思わないから、これをもって出て行きなさい!!」と、下着一式なんぞが入った風呂敷包みを渡され追い出されるという念の入れようであった。
そういえばあの人は、悪さをした猫にも「お鍋をもって出て行きなさい!!」と言っていたから、ま、口癖みたいなものだったのだろう。
さて、追い出された私は、といえば、本当にそのままぶらぶらと行方をくらまして、警察や近所の人まで巻き込んでの大騒ぎを引き起こしたこともあるが、大抵は、家の門の前で風呂敷包みを抱えたままべそべそと泣いているのが常であった。
そうこうしていると日も暮れて、誰か近所の優しいおばさんが寄ってきて、「おばちゃんが一緒に謝ったるさかい、家にはいろ」と言ってくれるのであった。
一度など、がらりと玄関を開けてくれたおばさんに、勘違いした母親が箒を振りかざし「誰が入っていいと言った!?」と怒鳴りつけて、大恥をかかせてしまったこともあった。
しかし、かくのごとくに、いかに厳しく親から怒られ先生から怒られようと、私の子供時代には、必ず周囲の誰かが優しく慰めてくれるという救いがあった。それは、自分がいつも絶対的に誰かから見守られ愛されているという安心感を子供に与える。
それがあってこそ、体罰も含めた厳しい躾というものが成り立つのだとつくづく思う。(ちなみに私は体罰肯定論者である) |
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池田理代子 |
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映画『永遠のマリアカラス』に寄せて |
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《わが心のマリア・カラス》 |
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実際にマリア・カラスの歌を聴いたことのない人たちに、彼女のことをどう説明したらいいのだろうか。彼女のあの、比べるものとてない圧倒的な存在感、カリスマ性、今活躍中のどんなソプラノ歌手とも違う個性的な声、人に息詰まるような衝撃を与える表現力・・・などとここまで書いてきて、はたと気づいた。
実はかくいう私も、実際にはマリア・カラスの歌も姿も生では耳にし目にしてはいないのであった。彼女のCD、舞台のビデオやLD、そして数々の伝記や写真集、はたまた『マスタークラス』などの舞台・・・そういった間接的なものによってしか、私はマリア・カラスを知らないのにも拘わらず、何故これほどにも私は生き生きとした彼女の存在を身近に感じることが出来るのだろうか。それこそがまさに、マリア・カラスが不世出の存在であった証しに他ならない。
47歳にして音楽大学の声楽科に入学し、子供ほどの世代の若い人たちと机を並べて勉強した私であるが、当然のことに、同級生達はマリア・カラスを知らない。彼女が、二十世紀最高のソプラノ歌手であったという知識はあっても、どういう女性で、どういう人生を送ったかということは知らないという音大生も多い。しかし、ひとたびCDででもビデオででも、その歌を聴き姿を見れば、「人生というものがどんなものかもまだ知らない」ような若者達ですら、殆ど呆然となる。
かつて、伝説的なテノール歌手に、マリオ・デル・モナコという人がいた。
マリア・カラスより十年くらい前の時代の人なので、その名前と数々の偉業は知ってはいても、私も含め同級生達が、その声に触れる機会はいっそう少なかったといっていい。
或る日、『オペラ史』の授業で、そのマリオ・デル・モナコが主演する『道化師』のLDを観せられたことがあった。妻の不貞を知り苦しみながらも、「芝居の準備をしなくてはならない、衣装をつけろ」と歌う道化師役のデル・モナコのその歌と、鬼気迫る演技に、その場面が終わったとき、すべての若い学生たちは皆一様に、声もなく呆然としていた。
デル・モナコのこの凄みと同じものを、やはりマリア・カラスもまた備えているのだ。
『トスカ』でのスカルピアを刺し殺すまでの歌と演技の迫力は、モノクロのビデオからでさえ十分に衝撃的に伝わってくる。彼女の舞台を初めて観た人々の受けた衝撃がいかほどのものであったか、想像に難くないではないか。それほどの歌い手の人生を大きく狂わせてしまった、ギリシャの海運王オナシスの存在を、私は本当に憎んだものだった。彼と出会いさえしなかったら、マリア・カラスはまだまだ歌うことが出来たのではないか、我々から世紀の歌姫を奪ってしまったのはあの男に他ならない、と。
しかし、今ならわかるような気もする。あれほどの才能と、厳しい努力に裏打ちされた確固たる技量とを備えながら、たった一人の男の出現で目茶目茶になってしまうような女性だったからこそ、マリア・カラスにはあんな舞台が演じられたのかもしれない。 |
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池田理代子 |
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歌舞伎プログラムに寄せて |
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《私と歌舞伎》 |
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母が観世流の謡曲をたしなんでいたお陰で、私は、日本の伝統芸能というとまずお能から入っていった。母の影響というわけでもあるまいが、四歳年下の弟も、能・狂言など中世国文学の研究者として、現在大学で教えていたりする。
歌舞伎の面白さに開眼させられたのは、高校時代からの友人のお陰である。歌舞伎座のイヤフォンガイドも顔負けというような該博な知識を誇るその友人に連れられて、色々な方の楽屋に出入りするうちに、本当に歌舞伎の面白さの虜になっていった。
衣裳や書き割りの洗練されたデザイン性、それに、例えば『北条高時』などにみられる踊りの近代性には、西洋の芸術家達も目を見張るものがあるのではないだろうか。
モダーンアートにも十分通じるその意匠を見ていると、いつも、日本人に生まれたことを心の中で誇りに思っている自分を発見する。
私は現在は音楽大学の声楽科を卒業した駆け出しのオペラ歌手であるが、西洋文化が誇るオペラの舞台に、歌舞伎の進出していく可能性は今後ますます高いものがあるだろうと思っている。それほど両者の間には、共通するものが多いのである。
今度新国立劇場で初めて、市川団十郎丈がオペラの演出をなさるが、これまでにも様々な形でオペラや西洋演劇の演出・プロデュースを手がけられた歌舞伎俳優は数多おられる。
日本におけるオペラの発展は、これら歌舞伎俳優たちの世界にも類例を見ない特異な才能を得て、今後ますます独自性を増し、楽しみな目の離せないものになっていくだろう。
お親しくさせて頂いている澤村藤十郎丈や中村福助丈なども、これまでにそういった分野に並々ならぬ意欲をもち挑戦を続けてこられた方々である。
私は十年程前に日本舞踊藤間流の名取りとなり、名披露目に『鷺娘』を踊らせていただいた。本番を前にして緊張の極みに達している私に向かって、藤十郎さんがおっしゃったことがある。「絶対に舞台であがらないこつを教えてあげようか。それはね、これ以上は出来ない、というほど稽古をすること」
この言葉は、今オペラなどの舞台にたつときにも、日々の練習の貴重な指針である。
さて、来年はいよいよ市川新之助くんが海老蔵を襲名する。
私の密かな(?)自慢は、藤間藤太郎師のもとで彼とは同門であるばかりか、私のほうがほんの僅かだが“姉弟子”であるということである。彼が藤太郎先生のところに入門してきたのは、まだ小学校三〜四年生の頃。
「栴檀は双葉より芳し」という言葉は、まさに彼のためにあるのだとつくづく思う。やんちゃで闊達で可愛らしかった“おとうと弟子”の、目を見張るような成長振りに、歌舞伎を観る楽しみがますます増える一方である。顔を合わせると下心丸出しで「私が姉弟子だってこと忘れちゃ駄目よ」と言っていたが、この頃ではもう眩しくて、言葉も交わせない。 |
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池田理代子 |
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東京交響楽団定期ポーランドプログラム |
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《祖国よ、天の涯までも》 |
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“草原の国(ポールスカ)”という名前を持つポーランドは、その名の通り、美しい沃野をもつ広大な国であった。しかしながらまた同時に、幾たびかその名を失った悲しい国でもあった。
ポーランドと聞いて誰もがまず思い浮かべるのは、フレデリク・ショパンの名だろう。自然科学に造詣の深い人ならば、キュリー夫人の名を挙げることも出来る。あるいは歴史に関心の少なからぬ人にとっては、アウシュヴィッツの忌まわしい記憶と切り離して考えることの出来ない国名であろう。
ショパン・コンクールの開催が危ぶまれるような状況を憂える日本人は多いが、そのショパンの国籍が『ポーランド』であることを明記できるようになったのは、1919年以降であることを知る人は、そうは多くない。
1797年からおよそ120年の間、『ポーランド』の国名は、政治的な地図の上から抹消され続け、第一次大戦後のヴェルサイユ条約によってようやく『ポーランド共和国』として承認されるに至ったのである。
「黄金の世紀」と呼ばれる、華麗なルネッサンス文化を花開かせた十六世紀を経て、東欧におけるキリスト教世界の牙城をもって任じたポーランド王国は、十八世紀に入って、ロシア、オーストリア、プロイセンによって三度にわたる分割支配を受け、ついには永遠にこの地上から姿を消すことになってしまった。
ポーランド王国最後の国王スタニスワフ・ポニャトフスキの甥であるユーゼフ・ポニャトフスキの生涯を描くために、また、ショパンの生涯を題材にしたテレビドラマの原作を書くために、私は幾度かポーランドを訪れることになった。
最初は、連帯の運動が盛んになり始めた頃で、ちょうど獄中にあったワレサ議長のために、ワルシャワの街の広場には市民から捧げられたおびただしい数の花が積まれていた。
生活のために、大学の教授職にあるような人がタクシーの運転手をしていたりして、心が痛んだけれど、この国民の持つロマンティックで不屈の闘志をたたえる気質は、物質的に乏しい日々に不思議な明るさを添えていた。
祖国をくびきから解き放ちたいという熱情は筋金入りで、年季が入っている。
ショパンもユーゼフ・ポニャトフスキも、そういった愛国的ポーランド人の一人であった。ことにユーゼフは、国王の後継に目されながらそれを蹴って、一軍人として、祖国復興の戦いに生涯を投じるのである。
ユーゼフは、名高い騎兵連隊を率いてフランス皇帝ナポレオンのもとに馳せ参じると、ナポレオンが祖国復興を実現させてくれることを信じて、フランスのために数々の激戦をくぐりぬけて戦功をあげた。そして1813年、ナポレオン帝国崩壊の直接的なきっかけとなったライプツィヒでの激戦において、壮烈な戦死を遂げたのである。
退却を急ぐフランス軍にまじって騎馬でエルステル河を渡河中、五発の銃弾を浴び、十月の冷たい水の中に転落、そのまま多くの兵士たちとともに河を流されていった。享年五十歳であった。
ポーランドの人々に尋ねると、彼らのイメージの中のユーゼフ・ポニャトフスキは、いつまでも永遠に若々しく美しいプリンスとして生き続けているということである。
ショパンの物語のほうはテレビ局の都合で頓挫してしまったが、プリンス・ユーゼフ・ポニャトフスキの物語は、『天の涯まで』という劇画として完成させることが出来た。
ちょうど発刊と時期を同じくして、ポーランドが紙不足、本不足のため、ワルシャワ大学の日本語学科でも学生たちのための日本語の教材が手に入らなくて困っているという報道に接した。
私は早速に出版社と協議の上、『天の涯まで』を何セットかワルシャワ大学に寄贈することにした。
あれからもう随分な時が経つが、現在では『天の涯まで』は、ポーランド語に翻訳されて出版されている。ポーランドの読者からの手紙が時々届けられるが、それを読むたびに、ポーランドへの得もいわれぬ思いに胸が熱くなる。 |
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池田理代子 |
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