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上野のれん会発行「うえの」2003年2月号に掲載されたエッセイです。 |
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ヴェルサイユと私 |
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フランス観光産業目玉とも言うべきヴェルサイユは、我々が普通に想像する一般的な都市とは異なるなりたちを背負っている。それは、ロシアの古都サンクト・ペテルブルクにも共通するものである。
すなわち、絶対的権力をもった支配者が強権を発動して人工的に作り上げた都市であるという点である。
サンクト・ペテルブルクの場合には、怪力で有名なピョートル大帝によって、ヴェルサイユの場合には、かのフランス史上に燦然たる名前を残した太陽王ルイ14世によって。
建物といっては小さな狩猟小屋を除いてはほとんど何もなかった荒れ野に、夥しい労働力を投入して、ヨーロッパでも有数のきらびやかな宮殿と洗練された都市が出現したのだ。都市特有の陰影の濃さと猥雑さを徐々に備えていったサンクト・ペテルブルクと異なり、ヴェルサイユの方は、当時の成り立ちの特異性を今にうかがわせる人工的な風情が十分に残されている。
それだけに、都市としての魅力にはやや乏しいきらいがあるかもしれない。
もっとも、海に面した沼地に強引に石造りのヨーロッパ風な都市を作り上げようとピョートル大帝が強権を振るったサンクト・ペテルブルクと異なって、ヴェルサイユの場合は、ルイ14世は、美しい広大な庭園を含む宮殿を創りたかったのだから(いや、むしろ庭園のほうが主眼目であったという説さえある)、こういった比べ方はやや不公平の謗りを免れないかもしれない。
こう言っては手前味噌になるかも知れないが、このヴェルサイユは、日本人の若き女性たちにとっては極めて魅力的な響きのある都市である。
私が初めてヨーロッパの地を踏んだのは、もう三十年も前、少女週刊誌に『ベルサイユのばら』の連載を終えてすぐのことであるが、たまたまパリから乗ったヴェルサイユ観光バスのガイドが既に「若い日本女性が(その頃私はまだうら若い24歳だった)このヴェルサイユ宮殿を舞台に物語を描いて評判になり、日本からの観光客が増えた」と、英語で説明していた。
その次は、たまたま仕事で知り合ったずっとフランス在住と言う日本人の観光ガイドの女性が、この頃おかしいんですよ。日本から来る女性観光客がみんなまずヴェルサイユに行きたがって、しかも、皆さんフランス革命の時代のことを実によく知っていらっしゃるんです。それから、よく聞かれるのが、『オスカルって本当にいたんですか』という質問なんですけど、オスカルって誰だかご存じですか?」と尋ねられて恐縮してしまった。
そんな風にして、はからずも深い縁を持つことになってしまったヴェルサイユに、もうあれから幾たび足を運んだことだろうか。
大して詳しいわけでもないのに、何故か皆が私をヴェルサイユ宮殿の隅々まで知っている案内人のように扱うので、いつの間にか宮殿内部の様子はそこそこに分かるようになってしまった。
二十世紀の終わりの年には、世界中から招待された人々とともに、宮殿で開かれた晩餐会にも、イブニングドレスを着て出席した。
その晩餐会の席上で、私の向かいに座ったインド人が、何と当時インドのボンベイ総領事をしていた義弟と親しい方で、本当に驚くやら感動するやら、「世界は狭い」ということをつくづくと実感したりもした。
昨年から神戸で開かれている『ヴェルサイユ展』(東京は、2003年1月より上野の都美術館)に際して、フランスから来日されたヴェルサイユ博物館の学芸員の方々と親しくお話する機会があった。
あれだけの絵画や歴史的な価値の高い美術品などを扱う人々の苦労というには、我々の想像をはるかに超えるものがある。しかしまた、例えばヴェルサイユ宮殿には「開かずの間」というのがあって、それは単にたまたま一階と二階の中間に作られてしまった部屋で、一階、二階のどちらからも入ることが出来ない構造になってしまっているとか、そういった面白いお話をたくさん伺うことが出来て興味深かった。
でも日本では、『ヴェルサイユ展』というよりは、『ベルサイユのばら展』だと勘違いしている人も多いと申し上げると、そういう問い合わせも結構あるのだと笑っておられた。
昨2002年から今年にかけては、『ベルサイユのばら』が誕生して30周年目である。
昔少女だった熱心な読者達も、新たに読者になってくれた若い世代の人たちとともに燃えている。その勢いで、冬休み奮発してヴェルサイユに行ってきたという人も結構いたのだが、後になって、マリー・アントワネットゆかりの品々はみんな今日本に来てしまっている事に気づいたというお便りがあって、そのことには私も気がつかなかったと大笑いをしてしまった。 |
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池田理代子 |
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